亜細亜大観/16
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東京城宮殿の跡 (滿洲國)
寫眞は渤海國の都であつた東京城趾である今は全く畑と化し、鮮農の耕するところとなつてゐるが、その畑中に宮殿の礎石が殘存し或は王城を建築した圓柱の跡も殘つてゐて如何に渤海國の首都が擴大で整然とし、更に文化が發達してゐたかが伺ひ得る。 -
東京城壁發掘の跡 (滿洲國)
寫眞は白鳥博士と鳥山博士一行が、東京城々趾を發掘探究したところである。右に小高く石垣を以て築かれたのか昔しの東京城々壁でこの城壁が南北に一里弱、東西に一里餘も續いてゐてこれによつて東京城は長方形の都城であつたことが伺ひ知られる。 -
東京城出土せる鐵甲 (滿洲國)
寫眞は東京城趾發掘の際、埋れる古井戸の中より出土せる鐵甲である。一見するに蒙古風のものであるが、その精巧さと質の良好さを見る時如何に工藝が發達してゐたがか判る -
東京城寺廟の跡 (滿洲國)
昔し渤海國が唐より學問、佛敎、藝術を輸入し、渤海文北の殿堂を築いたもので、特に佛敎は往時の朝廷は勿論民心にまで普及し、為めに寺廟の建築も盛んでその技術も相當に進んだやうである。寫眞は即ち東京城の寺廟の跡であつて、寺廟は新しいが、庭前に建つ石塔は往時の佛敎文化と佛敎藝術を物語る立派な史料である。 -
東京城々壁と群羊 (滿洲國)
その昔し一つの城廓を以つてし、大憂高樓が櫛比し商賣は繁榮し、王城の群臣が肩を威からして橫行した渤海國の都である。東京城も今は農夫の耕す畑となり都城の土壁に添ふて放牧の群羊が遊ぶのを見れば全く一場の夢である。 -
東京城の現在 (滿洲國)
渤海國當時の東京城に就ては今その城趾の發掘によつて、都城の擴大さを知ることが出來るが、寫眞は現在の東京城の街の姿である王城當時の東京城には叶ふべくもあるまいが治安が保持され、それによつて開拓され行くこの附近は何れ近き將來に往時を忍ぶ立派な街となり繁華を呼ぶことになるであらう。 -
東京城寧安縣農業 (滿洲國)
寫眞は東京城附近寧安縣に於ける朝鮮人農民の收穫風景である。渤海國時代に開化したこの地方が、渤海國の滅亡と共に荒廢したところ、を滿洲國の建國により王道樂土と化したので、今また鮮農が開拓して農事にいそしみ、その甲斐あつて、今秋の收穫に微笑しつつ米の山を築きつつあるところである。 -
寧安街の繁榮 (滿洲國)
寧安は東京城跡の寧古塔の北にあり、縣城の所在地であつて、寧安街本通は、寫眞に見る如く高樓商賈が櫛比し願る殷盛を極めて、商民も滿洲國の治政に喜び、平和な日を送つてゐる。 -
寧安驛の特產物 (滿洲國)
滿洲國も交通が登達し、治安が保持される從つて、農業が盛んになり農民も示安心し種を蒔き秋の收穫が出來る譯である。寫眞は、寧安城を去る幾十里から集る滿洲國特產の大豆、高粱で、驛の野積倉庫は、これらの特產の山が幾十となく築かれるのである。以つてそ殷賑を伺ふことが出來るであらう。 -
寧安の鷄市 (滿洲國)
滿洲國は世界て有名な鴒の產地で、冬ともなれば遠く英京ロンドンから山鶏の注文が來るのである。此處寧安附近また鶏の產地で冬季で百姓の出來ない農民は山に野に出で鶏を捕へて市場に出すのである。寫眞は街に俄に出來た鶏の市の風景である。 -
滿洲の歌妓 (滿洲國)
滿洲各都市の勸樂街を坊主頭の滿洲國人が、可愛らしき二三人の小姐を連れて徘徊してゐて、遊興客のもとめに依つて一席一曲を彈じ哀音を流して唱ふのである、坊主頭の彈く蛇味綜、脚台に擔せた小鼓を調子よく叩き小姐の歌妓は左右兩手に小さな拍子木をカチカチと鳴らしながら卑猥な歌を唱ふがまたこれを聞く妙味は、遊女に戯れ乍ら瓜子を嚙る遊蕩兒でなければその味を知ることは出來ない -
街頭音樂師 (滿洲國)
寫眞は滿洲國各都の人通繁しい街頭で屢々見受ける街頭音樂師の風景である。盛場と云ふ街角などで、圓陣に圍まれて蛇味綜を彈き、笛を吹き、歌を唱ひして聽聞者から投錢を貰つて生活する彼等一團の生活振りは、外見には實に悠長なもののやうであるが、彼等には親方があり繩張りがありして、その日稼ぎの多寡が彼等を愉快にもし、不快にもするのである。 -
豚追ひ (滿洲國)
滿洲國は廣い、從つて牧場も廣く、蒙古路の牛馬の放牧は有名なものであるが、また豚も猪と呼ばれて、原野に放牧されてゐるのである。寫眞は牧童でなく牧男が冬の日に遠い田舍から豚を追ふて街の市場行くところである。 -
佛像塑像師 (滿洲國)
中國や滿洲國は古くから佛敎が行はれただけあつて、佛像製作技術の進んだところである。都會は勿論、田舍の寺廟には必ず等身大か、等身塑像の佛像が安置されてある。寫眞は若い佛像工匠が、佛像を作り、今快心の微笑を浮べて今裝飾に手を下さんとしてゐるところである。 -
飲食店 (滿洲國)
寫眞に現はれてゐる店先きに吊してある房のやうなものは飲料店の看板である。滿洲國や支那を旅行する者は、街で村落でこの看板を見るのが非常に嬉しいのである。そして、店の中にも庭の床凡にもお客が立て込んで空腹を充すのである。ところが面白いことは、この飲食店の店先きにまた行商人が店を出して飲食物を賣つてゐるのである。然も、これを店でも平氣で商賣を宥し、御本尊達も平氣だし、お客もまた平氣でゐるのだがら、民情と云ふものは面白いものである -
滿洲人の醫生 (滿洲國)
滿洲國や支那では、醫者は概ね藥舖を兼ねてゐて、醫生が藥舖を兼營してゐるところもあれば、藥舖に醫生が寄寓してゐるところもある。寫眞は醫生即ち滿洲國人の醫院であつて、店先きには寫眞の如く必ずひようたんの看板か出してあるこのひようたんの看板が出てゐれば必す醫生の家であつて、洋漢兩樣醫術が行はれてゐる。 -
飲食店 (滿洲國)
寫眞に現はれてゐる店先きに吊してある房のやうなものは飲料店の看板である。滿洲國や支那を旅行する者は、街で村落でこの看板を見るのが非常に嬉しいのである。そして、店の中にも庭の床凡にもお客が立て込んで空腹を充すのである。ところが面白いことは、この飲食店の店先きにまた行商人が店を出して飲食物を賣つてゐるのである。然も、これを店でも平氣で商賣を宥し、御本尊達も平氣だし、お客もまた平氣でゐるのだがら、民情と云ふものは面白いものである -
氷上の運搬 (滿洲國)
寫眞は吉林省城下に橫つてゐる松花江である。この松花江の流れも冬の寒さには敵する事が出來ず凍結してしまふのである。で、冬になると江上の交通並に運搬は非常に便利であつて、氷上を人を乘せたソリが走り寫眞の如く木材を積んだソリがツルツル滑つてゐる。こんな風景は寒國滿洲ならではみられぬ風景で、これも吉林がもつ季節的名物である。 -
吉林小白山の神鹿 (滿洲國)
吉林省城の近郊に小白山と云ふ名勝がある。此處は吉林の北山と共に吉林の名所で遊覽者は必ず杖を引くところである寫眞はこの小白山に飼育されてゐる。神鹿である。木柵の中に戯れる愛らしい鹿を見る時、吉林の等閑さが伺はれるのである -
滿洲國人の愛する樂器 (滿洲國)
寫眞は滿洲國人や中華民國人間に使用されてゐる樂器である。寫眞左から、蛇味線、月琴、胡弓二張、笛二本、竹製柏子、銅鑼等である。 -
鳥店型の門 (滿洲國)
滿洲國內の一部にはその建築上に於て日本と似通つてゐるものがいろいろある此處に示したのは門であるが、この門の型は日本神社の鳥居と同じい型である。昔し、日本と勃海國との修交したことを思ふと、この型が何れから傳へられたか深く研究する時は面白い結果を見出すことであらう。 -
齊々哈爾の寺院 (滿洲國)
此處に揚出した寫眞は、滿洲國龍江省昂々溪(チチハル)にある寺院である。一見したとこう殺風景な田園の中にある寺院に過ぎないが、よくその建築法に就て注目して見ると、棟から屋根の型が日本の神社の建て方になゝてゐることである。である史家や建築家の研究資料として頗る價值あるものと思ふ。 -
吉林附近民家の門 (滿洲國)
吉林から間島方面にかけては、建築上日本の方式と似通つてゐることは他にも説明したが、この門を見ると全く日本の家の門の感を深くなるであらう、これは吉林省城郊外にある民家の門であるが、こんな親しみある風物がこの地方には澤山ある。 -
孔子廟 (滿洲國)
支那や滿洲國の都市には至るところに孔子廟があつて聖人の敎へを追慕してゐる。寫眞は吉林省城內にある孔子廟であるが、その建物の擴大によつて考へるにこの地方の住民の聖人孔子に對する追慕の情の深さが偲ばれる。 -
吉林の北山 (滿洲國)
北山は吉林城の北方郊外にある名山である。山と謂ふも丘に過ぎないが、この山には諸々の寺廟があつて、春夏秋冬參拜登山の客が絕えない。尤も、この山頂に立つて瞰下すれば吉林城は眼下にあり松花江の大長帶は省城下を過ぎて遙に遠く、と云い風に風景もまた絕佳である寫眞は新綠の侯に行はれる祭典の景で山麓には圖の如き市が立ち非常に賑かである。 -
滿人農家全景 (滿洲國)
吉林省寧安縣に散在する滿人農家の景である泥塀を圍らし一見支那式滿洲の農家の風に見へるが、よく見るる家構造は日本の農家の構と同じいのである。 -
松花江の木材場 (滿洲國)
吉林省の奥深く木材の產地である。その木材は松花江の流れを利用して筏を組んで吉林城に運ばれ。木材の山を築くのである。面白いことは、筏が解かれ木材が陸揚げされると附近の住民が集つて、木の皮を剝ぎ、その皮を取つて燃料とするのである。恁ふした關係で吉林に集る木材は人夫賃なしで材木は綺麗に裸にされるのである。これも一つの滿洲風景として紹介したい。 -
吉林郊外風景 (滿洲國)
吉林省城は松花江に接した吉林盆地の即ち吉林平野にあるのである。省城の民は商工を以つて生活してゐるが近郊の民は農を以つて生活してゐる。寫眞はその村落にある農家散在の風景である。 -
松花江の花 (滿洲國)
松花江の水流を利用して滿洲の奥の木材は筏となつて吉林に運ばれるのである筏には寫眞に見る如く小屋掛をして、筏上にて煮焚は勿論一切の生活が營まれる譯で、筏夫等は解氷から結氷までの期間即ち夏の間は涼しい江上生活をなすのである。 -
吉林の雪かき風景 (滿洲國)
滿洲の雪は粉雪である。滿洲の冬は極寒三十度前後である。從つて降る雪も淡雪である。或は粟雪かも知れない、小さな雪である。その雪が一度降ると陽春の來訪まで溶けない。寫眞は吉林の雪かき風景で街の道路はこの雪が降り積り凍りついて往來の繁しいところは鏡のやうにつるつるして滑る位いである、その凍りつた街中を雪かき馬車は氷柱を垂れながら運搬するのである。 -
自流井の鹽井戶 (四川省)
自流井は四川省富順縣にあり鹽の產地として著名である。鹽田は七十萬方里あり、鹽水は地下三千尺の底に流れてゐるので鹽田の諸所に鹽井戶を堀り水牛を便用してロクロを捲いて、鹽水を汲み上げて、その鹽水を釜で焚いて白鹽となしてゐるが、その燃料は石炭薪を使用ぜず、附近に發生湧出する天然瓦數を利用してゐる。鹽の年產額は三百萬元の多額にのぼつてゐる。 -
自流井の鹽船 (四川省)
四川省の自流井は鹽の產地として有名で遠く海を離れた支那大陸の鹽の供給は自流井の鹽を以つてなしてゐるのである依つて寫眞に示す如く鹽舟が江岸に列をなして浮び江上市を形勢してゐて、それがため市街も極めて賑つてゐる。その他の物資も豊富で交通も至便である、そのためか重慶に破れた蔣介石はこの地を政府の移轉候補として睨つてゐる。 -
九眼橋 (四川省)
九眼橋は成都の東南角錦江の下流にある。橋眼九個あるが故に九眼橋と云ふ、これを過ぐれば一廢塔廻梱塔があり成都城壁を望見する、旁に製革、製糸工場の煙筒か林立してゐる。更に流に添ふて下れば望江樓と云ふ名勝地がある。だが九眼橋上の眺めは又格別である。 -
塗山 (四川省)
重慶の對岸南畔に聳ゆる高竣なる山岳を塗山又は眞武山と云つて古來著名なる靈山である。今は山麓に稅關白人の住宅があつて有名である。古書に高さ七支里周圍二十支里昔往嘗て大禹が諸公と會せしことあり又史記夏本記に謂ふ處の夫人の家塗山氏の居所なりと云つてゐる。またその山麓の峽の附近に黃葛樹を生ずる故に黃葛峽と云つてゐる。水經注に所謂「江水右黃葛峽逕」と云ふのもここのことである。また、又の西眞武山、老君洞と云ふ大洞窟があつて眺望絕佳で、山頂には老子廟があり、呼歸石の名勝もある -
白水河の銅廠 (四川省)
白水河の銅廠は四川省成都の北方鼓縣にある省内第一の銅鑛の產地で銅廠もここにある。 -
四川省の芥子畑 (四川省)
支那大陸にはいたるところに芥子を栽培してゐる、それは支那國民が阿片、モヒの吸烟を亨樂の一とする惡習かある故に芥子を栽埋し魔藥を採取してゐるのである。寫眞は四川省に於ける芥子畑であるが、夏期これが開花の期節となれば紅・紫・白の色とりどりの花が咲き萬目これ芥子の花園となり實に見事なものである -
宜昌峽の山雨 (長江沿岸)
揚子江の上流宜昌は中央支那に於ける水路貿易の盛んな處であつて、これより朔ると即ち三峽の儉の一つたる宜昌峽となるのである。宜昌峽は長江の水路山と山に峽ばまり長潭となり急流となりして實物凄きもので迫る山も亦重疊として遙るかに遠く近く、その景は頗る雄大である。寫眞は宜昌峽の山々が山雨に閉ざれてゐる風景で雲烟山間の谷に流れるところでその氣分は普通では味へぬところである -
重慶 (四川省)
蔣介石が三度目の遷都地であり、今、日本空軍の爆擊地として世界人の注目する都市である。市街は楊子江と嘉陵江の合流點に存在し概ね市街は岩石上に出來てゐる。日本空軍數十度の空爆に寫眞の如き殷賑な市街の面影か殘るや否や、寫眞は丘上より重慶市街を望んだところで前方に流れる河か嘉陵江で石手前の河が楊子江である -
駟馬橋 (四川省)
駟馬橋は四川省成都北門外五支里の路上にあり、一名昇仙橋とも云つてゐる。水經注に「城北十里昇仙橋と云ふ送客あり、司馬相如の將に長安に入らんとするのを觀る、その門に謂ふて曰ク高車駟馬に乘らざれば汝の下を過ぎざるなりと後功蜀に入るや果してその志の如し」とあり橋を駟馬橋とはこの時から云ふのである、行人はこの由緒ある橋を過ぎながらその橋の史實を知ら者が多い、橋畔には遂寧の張鵬翮の撰書にかる詩碑が立つてゐる。長橋題柱去、猶定未達時、及乘駟馬車、刧從橋上歸、名共東流水、滔々無盡期 -
眠江[岷江]西沿岸 (四川省)
眠江は靑神縣に在り地勢は錦江流域に沿ふ平野を控へてゐる。平野は地味豐壤である故に農產物は豐饒である。またこの附近一體に養蠶が盛んであり烟草の產地である。寫眞は水路運輸の川舟か眠江市街に向ふところで、附近の特產物はまたこの川舟で各地に運搬される。 -
靑年宮 (四川省)
靑羊宮は四川省に於ける道敎の本山で城西にある成都城南門を出で錦江に沿ふて四支里武侯祠と共に成都城外の二大景觀である。由來を探るに昔し老子か將に關を出でんとする時關令尹喜に「千日の後我を蜀の靑牛の肆に見ん」と云ひし言に因んで後人が靑牛に一宮を建てこれを靑羊宮と謂ふに至つた。然るに、崇禎中張獻中か成都に據城した際住民を殺し靑羊宮を燒いてしまつた現存せる物は舊觀に價ひしないが規模が大きく成都を紛飾するに充分であるまた成都の花市銅羊の迷心等も世人に傳つられて有名である -
成都の住宅 (四川省)
成都は四川省の首都であり、四川省に於ける文化の中心地である。從つて市街としての完備は勿論交通も頗る發達し市街に於ける住宅も洋式を加味した支那建築が多い、然も寫眞に見る如き 蔦を配し或は庭園に草木を植えて風雅を好み、閑靜な生活を樂む者が多い -
四川省の學生 (四川省)
寫眞は四川省成都郊外小學校のうちで高級小學校である。生徒は白服白帽子で頗るモダンである。彼等は非常に純朴であつたが、今日では外來思意の輸入で排外思想が汪盛であると聞いた、特に最近は排日抗日を叫んんで陣頭に立つてゐるかも知れない、然しこの寫眞を撮つたころは非常に純朴で親切であつた -
はにわ (四川省)
四川省成都博物館に所藏する「はにわ」である。製作年代は不明であるが學者の説としては相當に古き年代の物と推定され珍重されてゐる。一見するに不細工てあるか、雅味に富んでゐるところから察するに名匠の作であらう。 -
成都博物館 (四川省)
成都は四川文化の中心地であるので文化も向上し學藝も盛んで學術の研究も發達してゐる。寫眞は成都博物館であるが館內には相當の蒐集品が陳列されてゐる寫眞は土器、出土品を各年代別に陳列したところである。 -
眠江沿岸の石炭 (四川省)
四川省は礦產物の多いところで未開發の礦物も非常に多い、採掘法は土民の手で行はれてゐるので幼稚である、石炭は至るところに產してゐるが、寫眞は眠江沿岸嘉定の上流である。 -
萬縣 (四川省)
萬縣は長江三峽の險のうちにある第一の都會である。宜昌を溯航すること一千餘里あり、成都と重慶への水陸交通の分歧點である。人口は約十五萬人で商業は繁營し蜀東の一大市場である。物產は、鹽、綿糸、棉花、石炭の他に砂糖、採油等があり何れも縣外に輸出してゐる。地勢は高峻、城郭廣大、江港も廣く水深く四川省に於ける有數の巨津である。 -
雲陽縣 (四川省)
雲陽縣は奉節萬縣の中央にある。地勢頗る急峻、懸崖の上にある。が然し、この地大江に臨み住民多く峽中第一の壯縣である。產物は井鹽で產出量も相當額に達してゐる この地は蜀中杜鵑の名所で春蘭のころ美聲を聞く客が多い、唐代の杜鵑亭も城內にある。 -
四川の花賣 (四川省)
四川省の氣條は頗る溫暖で四季ともに諸種の草花が山野に笑つてゐる。花の中には馥都たる香氣を持つてゐる物が多く植物學上面白いので研究家が來篤する。寫眞は重慶郊外の山野から花を採つて街に賣りに行く花賣娘ならぬ花賣小僧である。 -
臭塩磧 (四川省)
臭鹽磧は縣城對岸の沙渚中に存す江水の大減水の際江床露出する時土人は板屋を構へて假小屋を作り坑を掘つ鹽水を汲んで鹽を製造してゐる。これが即ち四川省の名物井鹽で年產額は頗る多い、政府では鹽務局を設けて、これに税を課してゐる。思ふに蜀省は離海數百千里の遠き大陸の奥地に在り海鹽を得るに運輸上不便の地にあり乍らこれがあるか為めに住民は易々にとして鹽を得て生活してゐる。考へるに人類生存上天が配せる自然の妙味であるまいか。 -
延平城 (北京)
北京郊外にある延平城は昭和十二年盛夏に起つた支那事變の由緒のところとして吾等の記憶に新しいところである。城壁に見へる凹みは當時の彈恨の跡で激戰を物語る資料である。|(印畫の複製を禁ず) -
帝王廟 (北京)
歷代帝王の靈を祀る帝王廟は北京城內の白塔妙應寺にあり、元、南京で行はれた歷代帝王の祭祀を明の洪武年間すり北京で執行することになつたところである現在の廟は嘉靖初年の創建で、當時は三皇五帝、三王、漢皇祖、光武帝、唐太宗、宋太祖、元世祖等創業の君王のみを祀つてのであつたか、後數度の改變あり、末に至つて、無道の帝王弑に遭つたを際いた歷代の帝王は何れもこの正殿に祭祀するやうになつた。また正殿の前に東西の兩廳には歷代功臣か配祀されてゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
鐘樓の大鐘 (北京)
北京の鐘樓の大鐘は、即ち鐘樓は乾隆初年の重建である。此處にある大鐘は、鑄匠の娘の靈鐘として有名である。今は鐘樓もなし、地上に据してあるか、大鐘の名にそむかない大鐘である。傳說の鑄鐘娘々廟は樓西の胡同中に殘つてゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
謝疊山祠 (北京)
文章を知る者で文章軌範を知らない者はない讀んで文章の妙味に淘然たらざる者はない、それ程有名である文章軌範は謝疊山の編になつたものである。また謝疊山は宋の忠臣として後世に名を殘し北京法源寺の後街に謝疊山祠となつてら祠れてゐる。正殿正面の(大雄寳殿)(調御丈夫)の額を見てもその人となりぶりか推察出來るであらう。|(印畫の複製を禁ず) -
謝疊山像 (北京)
寫眞は北京法源寺後街にある謝疊山祠の中に、ある文節公謝疊山栃得の像である。また附近に、憤死の所として傳へられてゐる小堂もあつて、ものさびた薇馨堂の額かかかつてゐる。殿内に安置された像は實に立派な像で、名匠の作らしく、一見文節公の人格を偲ばしむるものである。|(印畫の複製を禁ず) -
陶然亭 (北京)
陶然亭は北京郊外先農壇の西にある。一名慈悲廢とも六つてゐる。西郭に康熙三十四年に、工部郎中江藻と云ふ人か一亭を建て自樂天の詩句から捺つて陶然帝と名づけたが、後人はこれを江亭とも呼んでゐる。北京の市塵を遠ざかつた閑雅な激文亭で古來文人墨客の好んで淸遊するところである。境内に金及び遼の石憧かあり、附近に寺廟塚、墓等かあり景勝の地でもある。|(印畫の複製を禁ず) -
圓明園の廢墟 (北京)
北京郊外の圓明園は康熙、雍正、乾隆の三朝に亘つて建てられたもので萬壽山の北にある。長春もこれに連る大規模なもので、國回七十支里と六はれてゐる。|建築は外國の粹を蒐めた靈術建築の代表であつたが今は全く廢墟と化し見るかげもなく、ただ、寫眞の如き殘體かあるだけである。|(印畫の複製を禁ず) -
北京の飲料水 (北京)
北京は淸水に之しい街であつて、水道の設備も完備してゐない、從つて市民は井水を飲料水としてゐるかその井戸も戸毎に利用出來る程の數はない、依つて市民は遠く井戸まで水を買ひに行くか、買水を商賣にしてゐる者から買つて飲用してゐる、寫眞は北京市内にある井戸の一つ亦しをたものである。|(印畫の複製を禁ず) -
崇文門 (北京)
崇文門は北京城廟內一區界にあり、前門以東內に九門の一であのて哈德門とも云つてゐる。この附近には繁華な商店街があり、北京二大市の一つである隆福寺市場がある。寫眞に亦す門の牌樓は北京四大牌樓の一つで有名である。|(印畫の複製を禁ず) -
觀象台 (北京)
觀象台は最近氣象台て稱するやうになり北京市朝陽門南方の城壁牆にある。康熙八年ベルギー人の作つて天文儀器渾天儀を備之て觀象の觀測をなし、また天文學上の算數をなし曆を編んで國民に知らしめたところである。午砲台は二ヶ所にあり一ヶ所は宣武門東方城牆上、一ヶ所は德勝門東方城牆上にあり毎日時を報じて北京人に正確な時間を知らせてゐる。(以上は北京指南書の案内文である。|(印畫の複製を禁ず) -
紹興 (浙江省)
酒の都、紹興は支那酒の代名詞となつてゐる程に名高い。釀造高、六千五百石に上り人口二十萬、城内は水陸縱橫に亘り舟行頗る頻繁で又街路は概ね狹隘だが、富裕の都會であるから商家は揃比し殷脹を極める。運河交通の中心である。氣候も暖く碑樓に近き梅花も滿開である。|(印畫の複製を禁ず) -
六和塔
吳越王、延壽。賛寧二僧に命じ江流を鎭むる目的を以て建てたものだ。周圍約二百呎、直徑六十呎、の十三層塔、にして宣和三年罹災し居民がしばく潮患を被つたので、紹興年間旨を奉じて故基に因り七級を建つてしめた十年に至り初めて成る。明以來屢々燬きしも屢重建す。塔上に登れは江上白帆の點々眺望は實に雄大である。|(印畫の複製を禁ず) -
旅人と舟 (紹興)
岸邊に繫がれた、芋虫形の舟、これが客を運ぶのだから驚かされる。江南は雨が多いので、この中に宿借虫の樣に寢込んで運ばれる。だか晴天の日は蓋を除き江岸、や萊種の花を眺めながら悠々たる旅は、更に風流だ、これは江南の街裏だ、靜かに影はゆれて人影さへもない。|(印畫の複製を禁ず) -
庭の美 (紹興)
南方中支の民家、富豪の庭園は風雅な趣きが多い。白壁に竹林、光と影のリズムガ蔭つた入口から強い光が恰も水を流した稱に橫流し竹は、影を白壁に宿し自然の畫面を浮き出してゐる。中支民家の午何の庭園の一隅、|(即畫の複製を禁ず) -
碑樓 (江南)
支那各地に至る處碑樓が建つてゐる。其の構造、建築の方式は、各々地方特有の技術彫刻を配して妙味ある風稚さを覺ゆるがこの地方も石材を功みに使用彫刻し街上に建つのも江南特異の風趣がある。|(印畫の複製を禁ず) -
會稽山碑亭 (紹興)
會稽山は縣の東南十三支里に在る。山海經に曰く會稽の山四方其上多金玉鐵石勾水出でと云へり又越絕書に禹大越に至り芽山大會計に上り更に芽山と名づけて曰く會稽と山上に南鎭廟廟在り又越王城は會稽山上に在り碑亭は、山麓禹王廟の傍窆(下が之)石亭南隣に在り碑文は窔(下が文)石研究の參考資料である。|(印畫の複製を禁ず) -
運河畔 (紹興)
江南は水郷である。|從橫に開けた。水路の發達に舟をやれば早春の江邊は寂しい。一朵の雲の流れに刻々と自然の畫姿を寫し水にゆれてゐる。凡ての農閑期で、村々は人の婆さへ見へずいかにも靜かな平和水郷を現してゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
客棧 (紹興)
酒の都、支那第一の稱ある。紹興酒の本場で釀造高も年額多大な數に上つてゐる。從て客棧も料理も發達した古い土地柄である。街は、俠路であるが人口も多く古蹟名勝を訪ふ文人墨客も多く殷脹を極めてゐる。客棧も店頭にいろ(いろ)料理材料を並べて客を呼んでゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
柯橋鎭 (紹興)
鎭は湖畔に添つた。小やかな、街だ舟着場に配した石橋寺院のいからが陽に輝きこの土地の特張である半面白壁、半面黑壁に風流な、福字を白く浮ばせた家々の姿が靜かな湖水に巾れてゐるのも旅人の心には、この水郷の姿こそ親しみ深ひものだ。|(印畫の複製を禁ず) -
石の亭 (紹興)
會稽山は、古い歷史を特つ土地柄であるから種々の古蹟や、建物が殘つてゐるが、今は廢墟となつてゐる。寺廟は荒れ、蓬草の丈け伸び雜草や桑樹の間に殘された風雅な彫刻に往時を物語る石亭は江南人の當時の工藝美術も滿更に捨てたものでない。|(印畫の複製を禁ず) -
金山寺の塔 (鎭江)
金山寺塔は八角七重にして、頂上に慧達大士、阿育輪王、僧伽大士、耶舍尊者等を祀れり。塔上の眺望眼界闊く、府城を指呼することができる。塔は舊名を慈薦塔といひ、昔は二塔拜立したが、その後一塔倒れたを明の隆慶三年に北塔の跡に一塔建て今は慈壽塔と云ふ、その後屢々燒けたが光緒二十六年に再修されたものである。|(印畫の複製を禁ず) -
鎭江の埠頭
鎮江は、長江有数の良港であり。|揚子江と大運河の交叉点に位置するを以て清江浦及揚州水路線等は皆此の地を起点としてゐる。此に於て交通は四通八達の便は、殆んど、遺憾がない。又揚子江上下の内外の大船巨船の寄港すれば、市街の殷脹繁華を極めてゐる。|(印画の複製を禁ず) -
鎭江大觀
鎮江港は一名京口と称し風光明媚を長江第一と云はれる。其の位置南京の下游に在りて水路約五五浬、上海、西北に距ること水路一六五浬、長江運河の交叉点の西岸にあり。長江の南岸に瀕す。一望千里の大平野僅に小丘陵の所々に散在するのみ、古来、古き歴史を有し金山寺、馬山等著名の景勝に富み人口約二十万内外、貿易港とし長港有数の市街其の商業繁華は長江有数の大市場たに耻ぢな。|(印画の複製を禁ず) -
古寳周鼎 (鎭江焦山)
焦山は鎭江下流に在る一孤島であるが古來名勝地として名高い。焦山寺は有名な禪寺で漢の興平年間の創建で普濟禪院後に普濟庵と云ふ。俗に焦山寺で名僧多く住す。此の寺に古寶二つありその一は、周鼎、即ち無專鼎と稱するものにしても同鄉の魏氏に傳はりしが分宜の相嚴之を得んとして、その應ぜざりしに由り、將に魏氏を罪せんとした。嵩破れ後魏氏の子彌之を保全し得ざるを怖れ逐に焦山寺に獻じた、考古學者の調査に依れば西歷紀元前八百十二年即ち周宜王時代の作であると。|(印畫の複製を禁ず) -
喇嘛塔 (楊州)
この塔は楊州法海寺、今は蓮性寺、在る寺は隋唐の頃の創建にして元に至り重修せられたものだすれば、尚小金山より雨に煙る楊柳鬱蒼として、濠渠を蔽ひ往昔隋の煬帝が榮華の夢を極めたる史蹟を偲び、此の翠綠の墜門を透し遙かに金色燦然たるこの塔を望むの邊りは、眞に水彩を畫見る風趣がある。|(印畫の複製を禁ず) -
虎丘劒池 (蘇州)
虎丘は蘇州第一名勝地と成つてゐる。こゝに虎丘劔池といふ。石に彫ん文字がある。顏直大鄉の書だと傳へられてゐる。傳說に始皇が劔を以て虎を擊たんとした時誤つて石に當てた。その石が試劔石だと亦たその發いたあとが池となつた。これが劔池の起源だと傳ふ右に在るのは明代の經憧である。|(印畫の複製を禁ず) -
天平山高義園 (蘇州)
天平山支硎山の南方にある。全山奇岩怪石に端ちて突几としてゐる。南麓に范文公の公德院たる白雲寺、傍なる范氏の園は乾隆十六年高宗行幸して高義園と命名せられたる所園内の老楓樹數十株は皆數百年老幹にして秋末初冬紅葉の候は滿天紅葉ならざるはなく以て遊人の訪ふもの多し。|(印畫の複製を禁ず) -
瑞光寺塔 (蘇州)
盤門を入り右析して望橋橋を渡れば瑞光塔に至る。塔は呉の赤鳥拾年孫權が母恩に報いんとして建てたものである。宋の元豐二年神宗皇帝が園照禪師を招じて說法せしめた時白龜現はれ枯竹榮え、法鼓自ら鳴り寳塔より光を發するなどの奇瑞が現はれたので四瑞と云ふ堂名を賜はつた。宜和年中塔の十三級を七級に改めた。其の屢々燬け修築したもので、いろ(いろ)の傳說を殘し蘇州七名塔の一づである。|(印畫の複製を禁ず) -
天平金山 (蘇州)
天平支隴なり。茶尼隝山とかいふ。晋宋間、石を鑿ち金を獲たるを以て金山と名つけたりして山高五十丈、美石多く山に石削ありその頂上を最勝と題し五代隱士陸遹の書であつたが、今は斧去せられて無い。山半に繙經石あり又石粱兩壁に橫架すその下空洞にして通行すべし或は言ふ天台粱に類す。因て羅橋漢名づく。|(印畫の複製を禁ず) -
靈巖山寺 (蘇州)
天平山の南方に聳立する一山にして、山より硯材を產出するを以て一名を硯石山といふ越の美人西施の名で知られ、頂上に九層の古塔あり圓照塔上云ふ塔前の南北に響屧廊又は鳴屧廊とも稱し古來よく詩題に選ばれたる處又靈巖寺は西笠僧智積禪の開山、明の洪武年間に報國永詐禪寺と勅額を賜はてゐる。此の地は今は、往昔の窈窕佳麗客色又一夢のみされど山上より眺望は依然として雄大を極めてゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
吳山下瞰 (杭州)
淸波門から入りて行く事約一丁にして吳山に登る。武林山の走りて城中に入りその最後の隆起せる山で一般に城隍山と呼ぶ。山高からずと雖西湖及府城市街を脚下に見下ろす雄大の景は又杭州、西湖に枝を引くもの、見逃すべからざる景勝地である。|(印畫の複製を禁ず) -
杭州 (西湖畔)
西湖畔に添ろ公園に配す高層建築は旅舘である杭州遊覽客が多く從て旅舘も多く湖畔に近きところに軒を並べて、居なから春風駘湯の候、月明秋夜の遊船等景色の眺望きほしいまゝにながめられる。城內三區に分ち最南部を上城、中央部を中城、北部を下城と稱し、上部最も殷賑を呈し諸官衛大賈、巨商等此處に集まつてゐる。|(印畫の複製を禁ず) -
西湖 (杭州)
岩山葛嶺、古稚なる保俶塔の影を水に落し靜かにゆれてゐる。晴れた一日の西湖は油繪の樣に優れた景色だ湖畔に高樓ホテル其の他の旅舘建ち並んでゐる泊すれば、湖面に浮ぶ島々畫航等の點在を眺め名勝西湖が一眸の内入る。|(印畫の複製を禁ず) -
石洞 (杭州)
飛來峯にあり石洞の右手の崖壁に盧舍那佛其の他十七體の佛像あり宋の乾興二年胡承思の作である。又左上に元代の作あり洞を進めば穴あり此に多數の小羅漢を刻す殆んと皆宋の作品である。此の寫眞は其一部で支那彫刻史上重要な古蹟の一つと云つてよい。|(印畫の複製を禁ず) -
三潭印月 (杭州)
蘇隄の稍々中央外湖の南部にある島で、彭剛直の祠及蓮花の多い池がある。島附近に三個の石塔が在る。文人蘇東坡、杭州に守たりし時、常に湖を深くせん事に留意しその為にこの以南に船泊を近寄らざる標識として此の石塔を建つと、塔は恰も水中に浮漾する如く月光射せば影三を落すに由り此名あり、島内に彭彫直の別業たる退省庵及浙江先賢祠等がある。|(印畫の複製を禁ず) -
雲棲寺 (杭州)
寺は五雲山の西に在り宋の乾德五年吳越の時の建立にして宋の治平二年棲眞院と改め其後廢寺となつたのを明の隆慶五年、抹宏此に結盧して地中より一碑を得た。碑に由り昔の雲棲澗の故址あるを知り、其庵を雲棲寺と定めたといふ。聖祖、高宗兩帝扁額を賜ふ。山內幽邃外徑石道竹樹繞り閑寂境として訪客多し。|(印畫の複製を禁ず) -
煙霞洞 (杭州)
煙霞洞は煙霞洞嶺の南高峰に在り、入口に煙霞古洞の題額がある。吳越王錢は夢中に僧の敎示に依り此の羅漢を發見したなど種々の神秘說がある。洞上石佛手巖あり文人蘇東坡の題刻、尚象鼻巖水樂洞等あり洞內鐘乳滲滴し上に高閣が建つてゐる。石佛、石塔等古雅慈相あり優れたものが多い。|(印畫の複製を禁ず) -
平湖秋月 (杭州西湖)
涼氣度方洲 香來水正流|時聞採蓮曲 不見採蓮舟|三面水を繞らし全湖の勝を集め特に仲秋觀月の好適地。秋氣晴爽の候水痕悉く收まり皓月中天すれば千頃一碧、恍として俗界を忘るど古書にゆる。|(印畫の複製を禁ず) -
柯巖 (柯橋鎭)
柯巖は奇巖二つの岩塊が珍塔となり對立し其の附近の巨巖には石佛や經文を刻んでゐる岩塊に依る此の山を寺院や佛閣を建て水を配し靈光豊かに祈りを崇かならしむるのである。|(印畫の複製を禁ず) -
龍華の塔 (上海郊外)
上海西南二里半、黃浦江の畔り龍華鎭にある。七級の木造塔で盤施として高く聳へ毎年三月一目より十五日に至るを龍華會期とし觀塔せしむ。昔曹魏天笠三藏唐僧鎧昉建つると唐の乾符中黃巢の亂あり此時全鳥有に歸し宋の大平三年重修元末又焚け其後亦重修し今日至る春は桃花の名所とし名高い。|(印畫の複製を禁ず) -
玉泉跔突 (玉泉山)
龍王廟は玉泉山、玉泉の水源に在り其の廓前に乾隆帝御筆、玉泉跔突(湧出の意なり)の碑あり左に天下第一泉と題し右に玉泉山天下第一泉記を刻したる石碑二基あり共に乾隆帝の御筆なり。碑の岩隙より玉泉滾々と湧出し淸冽掬すべく實に天下第一泉の名に背かざるなり(萬壽山西方四支里)|(印畫複製を禁ず) -
銀裝飾品店 (北京)
これは銀器裝飾品店である。|店顏に陳列された。腕輪、耳飾、等いろ(いろ)販賣されてゐる銀を好む支那人達は從つて其の需要も多いので此の種の商店は支那では各地方に於ても發展してゐる。これは北京城外にある鎭興玉店頭である -
風雅な頭店 (北京)
北京は、往昔の古い姿の殘つた土地柄で處々に散見せられる、店鋪や看板に珍らしいものが多い。この衣服店の如きも見事な龍頭の彫刻を軒に並べてゐる。今は塗色の色あせてはゐれど、當時の壯麗さも想像されよう。 -
臥佛寺の碑樓 (北京西郊)
此の寺は、臥佛の像あるを以て俗に臥佛寺と呼んでゐる。佛像は二丈餘其の周圍り十二菩薩あり堂前に娑羅雙樹と呼ぶ、約二圍の大樹あり、西藏傳來のもので創建の當時の植へもの寺前の柏松の茂れる間に建つ碑樓は其構造樣式等優れて樹間に浮んでゐるこれは上部の一部である。 -
西郊風景 (北京)
北京郊外に杖引けば、處々に散見せられる時代の遺物か移り行く時の流れもよそながらの靜肅たる郊外風量に接することが出來るこれは往時の由緒ある人々の墓標でろう。石人、石馬、華表等に往時を物語つてゐるかのやうによく澄み渡つた秋の陽に浮んでゐた。 -
一輪車 (北京)
北京は、遼、金、元、明、淸の都であり往昔の文華の發達も在り近代歐州文華も移入されてはゐるがまだ、往時の名殘も殘されてゐる、交通に於ては鐵道、自働車も發展してはゐるがまだ、古代そのものゝ樣な、一輪車も郊外との交通、運搬等の使命を果してゐる。 -
合響器店 (北京)
合響器店とは銅羅やその他鳴物屋の看板である。古錆びたる古都に配するに古雅なる店鋪の構へ北京ならでは見られないものゝ一つである。 -
國子監の碑樓 (北京)
北京崇敎坊成賢街に在り孔子廟に西隣す元時代の舊學にして、明の永樂元年之れを國子監と改め。新學勃興前に於て天下俊才を集め敎育せし最高學府であつた。近來北京大學等の各種專門校の續出と共に廢せられてゐる。壯麗なる碑樓のみは、往昔を物語るかのよふに樹蒼たる樹間に建つてゐる。 -
古雅なる店 (北京)
北京の街を散歩すれば、新舊交錯して街相の變化を時潮の流に漸次移り變つて行くのも已むを得ない。だが、處々に古い名殘りが懷しい姿で街頭に散見せられる。其の店鋪も時代めいた古きをば偲してゐる。戸を閉されてゐるが、鼻煙屋の店頭である。 -
老爺と子供 (北京)
古い都の北京には奥床しい幾多の風習風俗が殘されて往時の盛衰を偲ばしむるものがある。移り行く時代の變化をよそに悠々たる餘生を孫に親しむ、好々爺の白髯童顏の微笑みにも北京の平和さが想像される。