File talk:Taira no Masakado detail.jpg

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この画像は朱雀天皇ではなく平将門では?

[edit]

この画像は朱雀天皇とされており、現在のコモンズの画像解説では「平将門を討伐した藤原秀郷が朱雀天皇に拝謁する図」(翻訳コメント者)とされていますが、画像の人物は正しくは朱雀天皇ではなく平将門ではないでしょうか?この画像は月岡芳年の連作『大日本名将鑑』(明治11~15年)中の一点「田原藤太秀郷」(明治13年)の部分図ですが(全体図:c:File:Tawara Hidesato - Mirror of the Famous Generals of Japan.jpg)、その詞書には次のようにあります。

「鎮守府将軍に任ず當時の良将たり。大和の田原の里に生るゝを以て田原藤太と号す。承平年中将門下総に乱を起すの時、秀郷是を訪ひ、将門の挙動粗忽にして将帥の器たらざるを認め、平貞盛を助け之と力を合して将門の軍を破り、自ら矢を放ツて将門を射殺せり。其軍功に因て武蔵下総両国の守護職に命ぜらる。一世の勲功太だ多し。後神に現ずるといふ。」(句読点・下線コメント者)

下線部は、秀郷がはじめ将門方に付こうとして面会するも、会食の際に将門が飯を袴の上にこぼしそれを払いのけるのを見て、将門の将器を見限り逆にこれを討つ決意を固めたというエピソードを指しており、江戸時代成立の御伽草子『俵藤太物語』(『日本文学体系』19、国民図書、大正14年 に所収)に記されたものです。とりあえず手元の文献だと、歴史魂編集部編『大日本名将鑑 -月岡芳年の武者絵-』(アスキー・メディアワークス、平成24年、ISBN 978-4-04-886868-6 )46頁でも、このエピソードを元に、この絵は秀郷と将門の対面の場面を描いたものとして解説しています。
ここから先は独自研究が入ります。仮にこの浮世絵(全体図を参照)が将門討伐後の秀郷への褒賞の場面を描いたものとした場合、将門討伐の功でようやく従四位下の秀郷が、絵のような位置関係で朱雀天皇の御覧に入るのはいかにも不自然です。「これは後代に描かれた大衆向け浮世絵であるから、考証よりも作画上の効果を優先したのだろう」という好意的解釈も可能でしょうが、それでも「なぜ将門の討伐時には十代の若帝であるはずの朱雀天皇が、手前の秀郷とさして変わらない年齢の鬚面の男に描かれているのか」といった疑問が生じます。
詞書や、上記参考文献の言う通り、秀郷と将門の対面の場面とする方がずっと素直な解釈ではないかと思います。それとも、他の文献ではこの人物は朱雀天皇であると書かれているのでしょうか…。

現在の説明が誤りであるということであれば、ファイル名やコモンズの説明の変更、Wikipediaで画像が使用されている記事の改変などが必要です。ご意見を求めます。

Abstract: This file doesn't decipt Emperor Suzaku but Taira no Masakado, does it?

--Tomomori (talk) 03:49, 3 March 2018 (UTC)[reply]

賛成意見です。なかなか無いものを証明するのは難しいのでほぼ独自研究になってしまいますが、この朱雀天皇(とされる人物)が13歳ごろの少年に見えないのも確かですし、その後方にいる人物の存在も気になるところです。後方の人物は髪型が小姓のような髪ではなく、冠などもかぶっていない、服装も公家のものと異なるため女性と判断するべきですが、仮に将門討伐に成功した秀郷への褒賞の場面だとしても、天皇と女官がああいう形で並ぶ事はないはずです。
もちろんすべての絵を知るわけではありませんので同じような描写がどこかにあるのかもしれませんが、一般的な錦絵や浮世絵、絵巻物などで描かれる天皇と武官の絵とは異なる印象です。少なくとも私は天皇の後ろに女性がいる状態で武官と対する天皇の図と言うものは見たことがありませんし、月岡芳年が「天皇が自分の後ろに刀を捧げ持った女性を控えさせて武官と対面する」という普通ありえないシチュエーションを描くとはちょっと考えにくいところでもあります。
また、この男性の容貌は、歌川国芳の「将門公連の諫言を叱責す」の将門や、この問題とされている絵が描かれた(明治11~15年頃)のとほぼ同時期(初版発行が明治12年)に描かれた竹内栄久(三代目歌川国貞)の『将門軍記』上巻の表紙である「将門と桔梗」などの将門像に近しいものを受けます。作画上の効果と言う意味では、高いところから見下ろす将門に対して堂々と向き合う秀郷、と言う絵としてはふさわしいシチュエーションだと思いますし、上記の後方に控える女性も、芳年が将門関連での物語上の重要人物である桔梗御前を登場させたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
絵の詞書から見ても、Tomomori氏のおっしゃるように朱雀天皇ではなく将門ではないかと考えるほうが自然であろうと思います。--122.255.225.185 05:50, 3 March 2018 (UTC)[reply]
ご意見ありがとうございます。先行作品や同時代における将門の図像上のイメージという視点は欠落しておりました。また桔梗御前に関するご考察など、大変勉強になります。その後、他にこの絵(『大日本名将鑑』「田原藤太秀郷」)について解説した書籍や論文は他にないか探していますが、中々見つけることが出来ておりません。唯一、新人物往来社『歴史読本』283号(1978年3月号)の『大日本名将鑑』特集にこの絵があるのを見つけましたが(42頁)、その解説は詞書の内容を超えるものではありませんでした。しかし、ここでも将門には触れられても朱雀天皇の名は出てこなかったことは確かです。
将門の図像ということで言えば、芳年は『大日本名将鑑』中にもう一点将門を描いていました。「常陸掾平貞盛」(こちらの右図)では、貞盛と対峙する将門が描かれ、こちらは確実に「平親王将門」と記されていますが、その姿はやはり濃い髭面で「田原藤太秀郷」の奥の人物と似ています。また、『芳年武者旡類』の平将門もやはり髪を振り乱した髭面です(コモンズ)。逆に、病弱な若帝であった朱雀天皇を髭面の男に描くイメージが当時あったとも思えません。また、「天皇が女官を後方に控えさせて武官に対する図というのは普通ありえないが、将門が桔梗御前を従えて秀郷に相対した図を芳年が描いたと考えれば自然である」とのご指摘も、大いに首肯できるものです。
やはり、奥の人物は将門で間違いないものと思います。もう暫く待って、朱雀天皇であるとの有力な出典等のご意見がなければ、今週末にでも必要な処置を行いたいと思います。--Tomomori (talk) 12:22, 13 March 2018 (UTC) --画像リンクを訂正。--Tomomori (talk) 18:16, 13 March 2018 (UTC)[reply]
✓ Done 改名のリクエストが通りました。コモンズの説明文は書き換えたので、日本語版Wikipediaの関連項目の編集にかかります。他言語版Wikipediaでもかなり「朱雀天皇」として使われてしまっていますが…それらは各言語版の方々に任せるしかないですかね…。ご賛同と貴重なご意見を頂いたIP氏(恐らくWikipediaの方ではお名前をお持ちなのだと拝察しますが、こうお呼びするしかないのでご容赦下さい)には深く御礼申し上げます。--Tomomori (talk) 11:57, 20 March 2018 (UTC)[reply]