亜東印画輯/京大第24冊
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◎興安市街(白溫沿線)
興安の街は最近まで王爺廟と稱し軍閥時代は屯墾軍の駐在地であつたが、滿洲事變勃發と共に蒙古復興の大旆がかゝげられ新國家の下に興安省が置かれてから白溫線の中心地として發展して來た。昭和十八年十月興安鼎總省公署設置せられ名も興安と改められて現在北邊鎭護の核心たる重要地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎興安郊外(白溫沿線)
王爺廟の名で知られた興安の町は、白溫沿線の洮兒河と歸流河との合流點の上流三角地帶をなす處にあり、一步町を離るれば廣闊な平原地帶で、到る處放牧の群が見られ豐富な牧草に惠まるゝ主牧從農の生活が營まれて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎王爺廟の廢址(白溫沿線)
前の町名に因んだ王爺廟の廢址は町の西側の小丘中腹に殘つて居るが、民國二年、內蒙獨立運動を起した折に砲擊せられ大庫倫に逃れた當時兵焚に罹り荒廢せられたまゝで、今は僅かに殘る礎石に在りし面影を偲ぶのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎泥の平房(白溫沿線)
この邊一帶の家屋は泥土で塗り固められた平房と云はるゝ平屋建てが多く、建築材料の乏しい此地方では枯草と泥土を練合わせた煉瓦樣のものを造りこれを積重ねて圖のやうな●(一字空欄)屋とする。元來遊牧移動した人々が漸次定住するやうになると共に固定包からかわつて來た樣式らしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎葛根廟(白溫沿線)
白溫線に沿ふて一望遮るなき草原に望見せらるゝ丹碧の彩も鮮やかな大伽籃が葛根廟である。明代の建設と云はれ、規模の壯大は興安地帶の最大であり、現在も喇嘛僧の數六百を算する。然し赤衣の僧侶も今では昔ながらの關心を人々からもたらされず、現在では僅かに迷信的な法悅に隆盛の餘燈をつなぐのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎小坊主の問答(白溫沿線)
小坊主どもが陽當りのよい石疊の上に集つて何やら問答の稽古でもやつてるらしい。その昔淸朝初期の愚蒙政策上、根柢から迷信的に育てられた喇嘛敎も現在では再檢討さへ呼ばれ盲目的な信仰から遠ざかりつゝある時流となつた。そしてこの坊主共も勤行の合間には鍬をとりて食糧增産にのり出す現狀となりたのである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎朔風蕭條(白溫沿線)
昭和六年六月、吾が中村、井杉兩氏は興安に近い蘇鄂公府の草原に屯墾軍のため尊い犠牲と消えたのが今の大東亞戰の遠い導火線だとも云へる。死の前數日二人が一夜の宿をとつたと云ふ三叉溝宿舎も今は壞れ果て、狀圖空しき無念の烈士が由緒ある廢址は唯蕭條たる朔風がはしるのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎オボと老兵(白溫沿線)
齡五十、壯志止みがたく若き民族を率ゐて遠く中華を越え、歐洲の一角を震撼せしめた沙漠の英雄が雄圖の昔物語りを偲びつゝ、櫛風沐雨昔ながらのオボに老兵の馬上姿を見るのも何となく淋しい。然も今や新しい若き成吉思汗の後裔は、一望千里の草原に、白皚々の平原に活気横溢の訓練に鍛えられ來らん日に供へて張切つて居るのが心强い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎オボを拜む(白溫沿線)
オボは廣漠たる草原の境界線である。道しるべでありそして旅する人々の守護神でもある。草原のさ中堆づ高く積まれた石塚の枯草に朔風戰よぐ暮れ近き頃、涯し知れぬ夕映の燃ゆる彼方、聲を揃えて呪文を唱ふる親兒の姿は、昔ながらの童話の物語を見るやうだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎羊の群(白溫沿線)
蒙古と云へば沙漠と放牧とを連想するほど牧畜が盛んで、これは自然的環境がしからしめたもので總面積の六〇パーセントが牧野に利用せられて居る。家畜は彼●(一字空欄)の貴重な財産であり、朝に夕に牧草を追び東に西に移動する包生活にあつては家畜は好伴侶であり家族の一員であるのだ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎遠浦歸帆(洞庭湖)
「銜遠山。吞長江。浩浩湯湯。橫無際涯」と有名な岳陽樓記の作者が絕唱したやうに、洞庭湖は面積四千方浬もある支那大陸隨一の大湖である。長煙一空、渺茫たる湖面を急ぐ歸帆の影は夕暉をうけて畫よりも美しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎岳州碼頭(岳州)
岳州の湖南省の東北方洞庭湖と長江を繫ぐ重要港で、度々の動亂にその爭奪の巷となつて禍された處である。先方幽かに望む樓閣は岳陽樓の故址で、唐代の創建で淸の初代に修築せられしもの、一碧萬頃、山を枕に湖に面し、遙かに君山を望むあたり、范希文の岳陽樓記の名文と共に知らるゝ勝地である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎汨水(汨羅)
粵漢線の岳州と長沙の間に史上に有名な屈原の投水した汨水のある汨羅がある。屈原は楚の重臣で淸廉高潔の士として知られた人、讒に合ひ此地に謫され憂憤遣るかたなく身を投じた。水明の江岸、綠蔭水色相滴るところ、一卷の「離●(馬へんにつくりは發)」を殘して沒水した多感多情の詩人を偲ぶのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎天心閣に立ちて(長沙)
長沙は地勢上陸海の交通至便のため、古來中華開發の先導となり、又湖南文學の淵源地でもあつた。近年は更に中原逐鹿の重要地となりその關鍵たるの觀あつた町で、開港場としても樞要の地である。天心閣は舊天文臺の跡で城内外を一望に収める名所である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山道の石階(岳麓山)
長沙の對岸約半里、湘江の流を隔てゝ沙城に對する岳麓山は、全山綠翠鬱蒼たる中に淸洌の溪澗を湛へる勝地で、秋紅葉の頃は全山錦繡の景觀尤も賞せられ、加ふるに山中に寺觀あり亭あり皆由緖あるものにて遊覽地として知られる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎古麓山寺(岳麓山)
岳麓山は湘江を隔てゝ長江に對する景勝の遊覽地で、山中綠葉參差たるうちに自卑亭、愛晚亭、晚香亭、萬壽寺、白鶴泉、雲麓宮、望湘亭其他の古趾あり、近年黃興、蔡鍔二人の墳塋なども建てられ人々の足を曳いて居る。山下に昔日朱熹四大書院の一たりし岳書院の跡がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎大禹の碑(岳麓山)
岳麓山中に大禹の碑と稱せらるゝ古色蒼然たるものがある。禹の碑は支那の各地に見られ近くの衡山(南岳)にもあるが、これは古から支那の帝王は山岳を祭祀する風習があつたと共に、殊に禹は治水の功勞者として古傳があるため、水に近いこの山に見るのであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎君山遠望(洞庭湖)
洞庭湖上、岳州岸に近いところに君山と呼ばれる小島がある。山上に祠堂があり、堯の女娥皇、女英の二娘を祀り一名湘山とも云はる。湖岸より望めば翠綠の山容は模糊として淡い島影を投げ、古い傳說を秘めたまゝ明媚な姿をなして居る。回 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎君山から(洞庭湖)
洞庭湖中の小島君山はその勝景を讚へらるゝと共に、古來君山茶と稱する紅茶の散地でありまた方竹、班竹の產地として知られる。皓月千里、月夜君山より望む岳州の景觀は「洞庭秋月」として八景の一に數へらるゝ絕景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎湘江の筏(湘江)
湘江は廣西省の海陽山に源を發し、湖南に入り永明江歸水河、來河、洣江、漣水を合せ幾度も重要地を廻りて湘潭にて洞庭湖に注ぐ。湘潭から凡そ四七〇浬、廣西省の桂林まで民船が利用せられ、途中の衡州は湖南から廣東、廣西に通ずる分歧點となつて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎南岳連峰(南岳)
南岳は衡山とも云はれ、東の泰山、西の華山、北の恆山、中央の蒿山と共に五岳と稱へられた。湖南省にあり、南支山岳の太宗で大小七十峰、最高峰を祝融と云ひ高さ九千餘丈と云はれる。祝融を中心として天柱、紫葢、石廩、芙蓉の四者を五岳と云ひ、其の他に雲居、赤帝、蓮華、岣嶁、煙霞、獅子、喜陽、加鶴等が數へられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎南岳廟の石階(南岳)
支那五岳は由來歷代天使の直祭せるもので、南岳も度々帝王の行幸を見た靈地であつた。その昔袞龍の法衣に文武百官を隨へた帝王の華かなりし繪巻、その折玉歩を運ばれたであらう双龍の大理石の彫刻、南岳廟正殿中央の石段も今は只徒らに風雨に曝さるゝのみである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎勅建上封寺(南岳)
南岳最大の廟である上封寺は祝融峰途上にあり、隨の大業中の創建に係るものである。南岳廟の東南に祝聖寺あり、宋代の天子が勝業寺の勅額を賜りたる處、其他紫雲峰下に衡嶽寺、雲封寺あり、全山寺廟、祠堂多く『嵩恒遜其修』と迄云はれた五山隨一の道場であつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎南岳御書樓(南岳)
南岳の本廟は赤帝峰の山麓にあり、古くよりこの山は歷代帝王の祭祀行はれしも中絕し宋代更に建立せられたのがこの廟で、建築は古代屈指のものと云はれる。南岳は古來天臺、禪宗の巨刹あり佛敎史上著名の靈場として知られた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎南天門にて(南岳)
南岳の主峰祝融に登る途上、道際に咲き亂るゝ草花の山路を峰傳へに進めば、南天門がある。長い木杖を携へ山中曆日なしと修りげな老僧の眉宇も、今や昔、傳へらるゝ嚴然たる戒律の俤も薄らいで淡いが、尙超然たる俗塵を離れた呑氣さが覗はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎獅子泉附近(南岳)
祝融峰途上、丹念に築かれた石階の山路を赤帝峰から南天門を越へ、獅子泉附近に來ると、湖南平野を貫通する湘江の流は白絹の如く逶迤として走り、視界は開けて重畳七十二の群峰は山色も美しく偉容をとゝのへる中を過ぎれば頂上上封寺に達する。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎雲際の棧道(南岳)
南岳祝融峰の登山路、全山殆ど樹木を見ぬ坂道を登り愈々山頂に近づく頃になると、眼前に迫つた連山の峻容は忽然と湧出た雲煙に包まれ、人々は寸先も見えぬ白雲一色のうちに包まれる。棧道は一步每に雲の姿、山の容を移そて刻々と變つて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎朝暾を拜す(南岳)
南岳群峰の最高祝融峰の頂近いところに望日臺がある。登山者は拂曉必ず此處に登り、遙か朝日峰から輝き登る日輪の朝暾を拜するを例とする。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎祝融峰頂より(南岳)
南岳七十二峰、煙雲縹緲、旦に夕に千變萬化極りなき雲海の姿は、支那五岳中最優のものと云はれる。 杜甫 百杖牽江色。 孤舟泛日斜。 興來猶杖履。 日斷更雲沙。 山鬼迷春竹。 湘娥倚暮花。 湖南淸絕地。 萬古一長嗟。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎雲波(南岳)
雲、雲、雲、波濤の如く起伏する雲波の重なり、その中を高峰の頂は飛石のやうに點々として通る。今し朝日峰の頂上を僅かに残した雲煙の壯美は、名人の彩管をかりても尚描し得ぬ大自然の靈筆である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎高麗山
高麗山は鳳凰山の支脈に屬し一帶の連亙をなし、その山頂は共に巍峨として天空に銳く迫り、奇峰秀巒の雄壯奇絕は共に劣る處ないが、その景觀の美は寧ろ高麗山を以て勝ると云はるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎嶮峻(高麗山)
巖石を峭り立てた嶮峻の間から巒峯を隔てゝ彼方に望む白布の如き清流は遠く鴨綠江に濺ぐ靉河の流れである。遙か彼方模糊たる巒峯の連るところは長白の支脈である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎高麗山容(高麗山)
高麗山は全山花崗岩より成る奇巖怪石の峭立する峻嶂で、山中到る處綠樹繁茂し峽谷、碧流等幽寂の境地をなし、梢頭の彈琴泉聲と相和するところ特に秋滿山蜀紅の美は滿洲第一と呼ばるゝ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎うら高麗(高麗山)
標高六百七十米突、突凸として稜々半天を摩して天空に聳え綠葉に彩らるゝ高麗山の雄姿は捨てがたい眺めであるが、錄衣を捨てた花崗岩の白い岩肌もあらはにその間を點々と彩る靑葉の美も又別の趣きがある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山麓(高麗山)
山麓近く朝露を帶びた青葉は朝の陽に一きわ綠に、放牧の馬の背を走る涼風にも山地らしい冷やかさを覺える。草叢に集く喞々虫の哀音を聞くのも高原の朝らしい (印畫の複製を嚴禁す) -
◎車窓から(高麗山)
安奉に沿ふ車窓の眺めは一体に山丘嶺地が多く、到る處奇峯蟠踞しその間に靉河、細河の淸流あり、その山容水態を送迎する景觀の變化は滿洲には珍しいものである。高麗山近く車窓より望む雲烟の美もその一つに數へらるゝ彩管である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山煙る(高麗山)
高麗の山巅は今し雲烟にかくれ、迫るが如き磊塊の奇峰の姿も山皺の影も柔らかな感觸のうちに包まれる。夏近き山裾の朝まだき露を踏む農夫の姿も若葉の綠に映えて淸々しい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎山裾の家(高麗山)
なだらかな山裾に抱かれた家は夏の陽をうけて明るく晴れ、人気の無い農家の庭先はいとも靜寂の午時である。突凸たる山の頂上は、旦に夕に雲に霧に或は陽をうけ山皺の色もとりどりに時々の姿をかへて行く。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎長城の址(高麗山)
高麗の古城は昔開州城とも云はれ、嘗つては東邊道地方に蟠居して朝鮮半島に雄飛した高句麗の遺趾である「四面石崖峭壁、東北二門、城隨山舗砌、可容十萬衆」と遼東誌にその雄大なる規模を稱へられた城壁の今に殘る姿である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
◎鳳凰城を望む(高麗山)
鳳凰城は古來滿漢兩民族の勢力接衝をなした地で、支那が朝鮮半島の咽喉を扼して高麗民族を支配した歷史の地である。高麗山より遙かに望む鳳凰山との山峽に築かれた城址は如何にも歷史にふさはしい重要な地形を想はせる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●洞庭湖(湖南省)
岳州寄りの洞庭湖上の名勝地君山は、古來傳説の多い小島である。遠く湖岸の微翠模糊として煙るところ波間民船の去來を望む景色は美しい。君山は一名湘山とも云つて居る。山上娥皇女英の二妃を祀る。蓋し堯の女にして舜の妃である。古來君山茶と稱する紅茶を產し、また方竹班竹を產するので有名である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長沙(湖南省)
長沙は湘江の沿岸にある湘南の首都、粤漢線中漢口に次ぐ大驛である。もと人口五十萬を包容する城廓都市であつたが、國民革命後城壁を撤去して近代的に攺造された。河中の三角州は對岸の商埠地と共に各國人の居留して居るところで、水上には常に日英米の警備艦が浮んで居る。古來水利陸運の便を借りて長江の心臟武漢に近い土地柄だけに、擾亂に禍されることが多い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●天心閣(長沙)
明代に造られた天文台の遺跡である長沙城壁の東南隅にあつたものであるが、今日は城壁を壞はして市區改正を行つた結果取り殘されて遊覽場に利用されて居る。長沙市中第一の高閣で全市を双眸の中に眺められる新しい名所だ。境内に岳飛の文字なりと稱する石刻がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長沙の街(湖南省)
共匪に禍された長沙のメインストリート、街幅が狹くつて如何にもせゝこましい感じを與へるが、一面充實した古い繁榮の歴史を物語る。湖南省は北に洞庭の水に依つて揚子江流域の諸勢力に觸れ、南境は廣東、廣西の革命熱に刺激されて人心自ら激越である、由來長沙は敎育機關の發達した新思想の盛な土地であるだけ今度の共産の赤賊に禍されたのも或は民情の然らしめたものであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●物々しい標語處(長沙)
市中公安局の門前に標語處と稱する掲示場がある。宣傳好な支那人は何かと云へば標語を作る、曾つては排日、排英、討馮、倒閻と標語は次ぎ(つぎ)に繪入色刷で張り出された。カメラ子の此の地を訪れた頃は切りに共産黨の襲來について警戒を與へられて居た時で、今果してどんな文句が張出されて居るやら。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●汨羅水(湖南省)
粤漢鐵道の汨羅站に近く昔屈原の入水したと傳へらるゝ汨羅江がある。湖東平野を逶迤として流れて洞庭湖に入る汨水が、江岸遠く白沙綠蔭を作つて水色の飽まで淸きを眺むるものは、今さらに屈原が離騒の詩意を解するであらう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岳麓山(長沙)
南岳七十二峯の一である岳麓山の勝地は長沙の對岸約四支里にある。喬松楓樹の鬱蒼として泉澗渓流の盤繞するところ、錦繍を彩どる秋の景色は最も好い。 文廟の前に湛江られた池中の亭は吹香亭と名づけられて宋代の創建で、ソリのある屋根の姿が淸冽の水にその影を映して居る景色は如何にも美はしい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●岳麓書院(長沙)
岳麓は樹林澗泉の美しいところで、山下に宋時代の遺跡として有名な岳麓書院がある。今日は湖南大學になつて居る。門壁に宋の鴻儒朱文公の筆になる忠孝節義の大文字を刻したるものや學界の至寳なる唐の李北海の古碑、その他貴重なるものを藏して居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●賈太傳故宅(長沙)
長沙には古い建物が保存されて居るもの一二に止まらぬ。賈太傳宅などその一である。賈誼は漢の長沙王吳苪の太傳にして名儒だ。漢代のものとは思はれぬが建築の樣式がその當時の面影を止むるに足るもので、蒼古たる色は掬すべきものがある。邸内一個の井戸がある、誼の穿つところなりと傳はる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湘潭(湖南省)
湘潭は湘江上流の開市場で長沙より遡ること尚ほ百支里、日淸汽船の終航地點であつた。人口約三十万、以前は兩廣地方との交易の要路であつたが、鐵道が出來てからはその繁榮は長沙に奪はれた形である。 古來湘潭には七大幇と稱するものがあつて各地の商人が組合を作つて、各々商權を擁護して地方的色彩を發揮したものであるが、今日はその勢力も衰へた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
長江スナツプ(江西省)
西空の雲間より落ちた夕陽の日足が、長江の流れに碎けて銀鱗をたゞよわしたやうな水面に、ヒヨツコリと帆船が浮ぶ。南京の下流江幅一千米餘。廣漠として水天に連らなる長江の大景を掴かんだスナツプの一つではある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●甘棠湖(江西省、九江)
九江城外にあり、周廻四里に餘り湖面に廬山の秀峯を倒映し、中央の長堤に垂柳煙り、城内能仁寺の高塔美しい影を浮べて居る。今は上海、漢口間の旅客航空路が開始以來九江着水場として毎日煙波標茫の湖上に銀翼の飛行機が着水するのもモダンな風景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●九江(江西省)
九江は潯陽の故地にして江西省唯一の開市場である南昌、九江間七十哩の南潯鐵道は省中部地方の物資を輸送して長江の水路と結ぶ。同治年間英國は此處に租界を設けて以來外國貿易にも相當の繁榮を來たし景德鎭の陶器も海外に紹介されたものであるが、先年漢口事件後英租界は撤回された。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●南康の衙門(江西省)
近頃のモダン支那には珍しい縣衙門風景である。南康は昔乍らの舊學府白鹿書院の所在地として有名である土地柄だけの特色はある。嚴めしい樓門の前には幾つかの石坊が建つて中門、正門の兩側に立ち列ぶ平屋にも對建の臭がある。併し各部屋の入口に見る三民主義の標語には新しい時の歩みを示す。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●長江の漁撈(江西省)
減水期の長江は愈々黃褐色を帶びて水は濁る。洋々たる江上に大罩網を舳に取つけたる小船が漁撈して居る。長江の魚類は鮭、鮒、鮠魚、鯰等多種の淡水魚を産する。時に二三尺もある巨鱗が網中に躍る。江岸の土民は大抵半農半漁の生活をして居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●潯陽江頭(江西省)
昔の潯陽江は今は龍開河と云つて居る。白樂天が貶謫されて江州の司馬となつて此地に居た頃、一夜客を送つて河上に浮ぶと、隣りの船から切々たる琵琶の聲が聞いて來るのに詩興油然として湧き、有名な琵琶行を作した。今は四ツ手網の漁師に當時の面影を尋ねるよしもない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
説明文なし(備考箇所にはあり)
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●南康城内(江西省)
西北に廬山を仰ぎ、南東は鄱陽湖の水に臨んだ南康の街は古來山紫水明の地として名高い。夏季廬山の避暑客を送迎するのが町の生命で今は昔ほどの繁榮もなく亡び行く封建都市の殘骸をとゞめるに過ぎない。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●民家の竈(江西省)
支那中部地方の民家にはどこでも立派な竈が取りつけられる。三疊敷もあろうかと思はれる大きな漆喰塗りで三ツ四ツの大鍋が架けられる。その上部の壁には必ず竈神を祭る。支那では臘月の二十三日此こカマドの神様が上天して家人の善惡を上帝に告げると信じて飴を供へて祀る習慣がある。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●九江の陶器商(江西省)
景德鎭で製作される陶器は九江がその集散市場になつて居る。一般には九江燒とさへ言はれる程此の土地と陶器とは緣が深い。江岸の大通りから全市の重なる商店は總て燒物で埋められて居る。毎年九江より各地に移出される陶磁器の額は五百萬元と稱せられる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●朝陽の街(熱河省)
世は國民政府となつて熱河特別區域も省制を布かれて、從來の東北三省が今は四省と變つた。 朝陽は熱河省内の主要縣城の所在地、古來から東蒙の故地として三座塔の名に依つて知られる。夏の白日に烈しく照りつけられた古るぼけた朝陽の街は、乾からびた黃塵を浴びながら一路西北の方赤峰街道へと通ずる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●武裝せる當舖(打通(2点線新立屯)
打通線の開通以來眼ざましい發展を見せて居る新立屯の街の形相に、特に目立つものは武裝した當舖(質屋)だ。銃眼を刻んだもの(もの)しい城砦造りの石疊みいかめしい住家の構へは、言ふまでもなく遼西の馬賊に備ふるための用意である。通用門は平日と雖も嚴重に閉鎖して、質を入れようとする程のお客樣は側らの小窓から僅かに取引される。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●龍卷(熱河省)
蒙地から吹き送られる熱風、ギラ(ギラ)する白刃のような眞夏の日光は、時々旅人を眩惑させる程の暑さだ。北票の街は苦熱の下にあ江ひで居る。 忽ち彼方に聳ゆる醫巫閭山の山嶺に一團の黑雲が颯乎と流れたかと見る間に、暴風雨を含んだ天邊の熱風は地上に吹き落されると同時に、天地は全く晦瞑に陷つて恐ろしい大龍卷が地の一角から捲き上げられる。蒙古地帶によくある大旋風の光景である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●醫巫閭山(1)(遼西)
遼西の醫巫閭山は古來幽州の北鎭と稱せられ支那十二名山の一にして名高い。高さ十餘里、周圍二百四十里とは支那の數字的説明だから當にならないが、北興安嶺山彙の支脈として遼西に蟠崛して居る範圍は可なり廣い。山中奇巖怪石に富み、古來寺觀廟閣の美も相當あつたものだ相だが、近來遼西馬賊の巢窟となつて發頽見るべきものもない、 (印畫の複製を嚴禁す) -
●醫巫閭山(2)(遼西)
古い山だけに色々傳説なども傳へられて居るものゝ中に、契丹の耶津突欲がその山容の奇秀を愛して萬卷の書を山中に藏し、絶頂に堂を築いて之れを望海と銘名したと謂はれる。蓋し山上より渤海の大觀を眺められるに依るのである、耶津卒するに及んで茲に葬り山下に北鎭廟を造つたとある。此邊最も奇勝煙霞の景に富む。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●市中の古門(京奉線錦縣)
錦縣は京奉線の主要驛遼西の大市場である。此地は昔幽州の時代からの都城で古來蒙古貿易の關門であつた。今は茲から北票といふ炭礦の在る地方迄鐵道の支線さへある。錦縣で有名なのは廣濟寺の古塔であるが寫眞のアーチはハンゴーメンと稱し、高麗時代の遺跡として今に東關街の眞中に保存されて居る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●城内へ(義縣)
京奉線から別れる錦朝鐵路の中間に義縣がある。往昔遼東への重要なる交通路であつたらしいこの一帶は今も古城壁に大塔に榮へた名殘を止めて居る。 蒙古路からの幌馬車か、城壁のもとを黄塵を立てゝ過ぎゆく光景は蒙古口という關係を最も氣安く感ぜしめる。錦縣よりも商業に活氣を呈してゐるわけも又自ら肯かれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●錦縣(京奉線)
錦縣廣濟寺の古塔は唐代の建設に係る。高さ約三百九十尺、基抵の台座には六面佛が彫刻されて居る。錦縣は東蒙物資の集散地で毛皮、甘草、棉花、雜穀類を取引する商賣は可なりに多い。在留日本人も相當に居る、會つて日本の商品陳列所さへ在つた土地であつたが今は無い。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●朝陽の三座塔の一(熱河省)
昔三つ塔があつたそうだが一基は崩れて今その二座を殘して居る。 朝陽は晋代に慕容皝が都した所謂龍城である。唐代には營州柳城郡、遼金に興中府と稱した三座塔も此時代の築造である。此地元蒙古の所領ではあるが古くから漢人の移住を見た土地で、街の格構には蒙古風がない。たゞ佑順寺の喇嘛廟は當時を語る唯一の遺物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●旅藝人(京奉線新立屯にて)
遼西から東蒙の漢人部落を廻り歩く旅藝人、猿一匹が飯の種子といふ先生である。手に持つた猿殿のお玩具、ラマ塔の格構したものゝあるところから察すれば蒙古人にもお得意があるのか、肩にした木箱は彼及猿の全財産である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●安奉線の山嶽美(南滿安奉線)
平原の滿洲から足一ト度安奉線に入れば、所謂山嶽地帶となつて四圍の風光は全く一變する。一は橋頭附近釣魚台の景觀で細河の峡谷美は既に人口に膾炙された。他は東行安東に近く高麗門、鳳凰城驛の邊り山迫り水狹まつて秀巒奇峰の美を展開して車窓に入る。秋によく春によい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗山の遠望(南滿安奉線)
磊塊の奇巒高麗山の雄姿は朝の空に雲烟の間から黑繪のやうに浮出されて居る。驛頭から眺めた山の容姿は如何にも此方に向つて呼びかけて來るやうな心待で切に魅惑を感ずる。喞々の蛩の聲、啾々たる風の音、山に對して心に秋を懷ふ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗山中の奇勝(南滿安奉線)
摩雲嶺の上から見た高麗の山肌が突几として綠衣を脱いで六百七十米突の天空に露出したところ處女の肌にも似て美しい。四圍の山靈は淸く靜かなる抱擁の中に永遠に此の美を守る。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●高麗城跡(南滿安奉線)
高麗の古城は昔開州城とも云つた。東邊地方に蟠居して勢威を朝鮮半島に振つた高勾麗旺盛時代の遺跡である。遼東志に四面石崖峭壁、東北二門、城随山舗砌、可容十萬衆。その規模の雄大を察するに足る。唐の太宗の此の地に來征したことは附會に過ぎないが薛仁貴の軍がこゝで戰つたのは事實であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●裏高麗の奇勝(南滿安奉線)
高麗山は鬱蒼たる樹林の間に奇巖怪石の峭立する花崗岩式勝景に在る。その幽寂奥𨗉の趣は岩の肌、樹木の色、山の姿と共に渓谷に響く鼕々たる水籟の音でなければならない。秋滿山の紅葉美に至つては滿洲の第一觀たるに耻ぢぬ。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰山中の道觀(南滿安奉線)
紫陽觀はまた三官廟ともいふ。鳳凰山中の巨刹である。三官とは道家の天地水の三官の神仙を祭るもので五斗米を供して治病長壽の法を修したものである。淺黃色の道服を着た道士の姿は支那の山嶽崇拝にはなくてならぬ景物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰山上の觀音洞(南滿安奉線)
縣城の南一邦里鳳凰山上に一大洞窟がある。明代禪林の修したところ今は觀音閣を祀る。洞門の額上に自然の大磐石を摩して「佛之洞天。我之宇土。唯佛與我。長此修古」の文字が美しい書体で書かれて居るのも奇觀である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●湯山城の温泉鄕(南滿安奉線)
湯山城の驛から三邦里半を距てたる靉河の支流湯河の河岸にある溫泉部落だ。俚俗五龍背の溫泉を指して西湯と稱し此の地を東湯と云つてその源泉を一にして居る。湯元は聖泉寺の境内に湧く出して稍々靑味を帶た透明の滑かな溫泉である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●温泉の朝(南滿安奉線)
遙かに鳳凰、高麗の翠微を仰いで秋の朝の溫泉村はしつとり湯烟に霞んで居る。例の支那部落の猥雜な混渾たる印象からすれば何んと淸淨で平和なシーンであろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●鳳凰城(南滿安奉線)
鳳凰城驛から小半道、縣城の城壁が蒼古として鳳凰山麓に聳江て居る。古來滿韓兩民族の勢力接衝の重要地点、支那が朝鮮半島の咽喉を扼して高麗民族を支配した歴史を語るもの、日淸、日露の役に於ても有名な戰跡である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●惡魔除けの咒符(熱河省二郎廟)
人骨を麥粉でコネ上げた三角形屋根型の護符は、喇嘛の祭式にはなくてならぬもので、一切の惡魔除け鎭魂厭咒の標識である。金銀多彩の彫刻花紋で飾り立てた此の咒符は大祭の際に引出されて式後野邊に送られて燒却されるのが習慣である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ラマ寺の本堂(熱河省佛ラマ寺)
同じく蒙古といつても東蒙は旣に漢人化された地方である。辛ふじて蒙古風俗を傳統して居るものは喇嘛僧の世界だけである。 索寞たる高原の宗敎生活の根源として喇嘛廟は陰慘で神秘である。佛ラマ寺は遼西地方から近い代表的寺廟の一つである。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●屋上の式壇(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟の屋上は平たい陸屋根になつて居て、朝夕ラマの衆僧が集つて讀經をする式場になつて居る。 表面中央の法輪を挾んで金色の神獸が一對左右に安置されてハツタカを付けた圓旛の翻へるところが即ち式壇である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛塔(熱河省蒙古鎭王府ラマ廟にて)
喇嘛廟には廟前必ずラマ塔を建立する。或は一對、或は一個の美しい白塔が飾られる。方形の台座に冠風の圓座が安置されて上部の三角形は法輪である。彫刻は粗雜な作であるけれ共黃金色多彩の塗料を施したるところ莊嚴である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●轉經(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟には何處でも轉經と稱する器具が備付けられる。圖のやうな西藏文を刻した金屬製の圓筒で廻轉される構造で、大小色々な形がある。 喇嘛敎徒は居常何事にも唱名して尊奉する六字の名號にオンマニパタマホンと稱する言葉がある。之れを誦唱する數の多いだけそれだけ無上法慈の結緣となるので、此轉經に依つて百万遍の唱號に値しやうといふ工夫である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●喇嘛の本尊(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛の本尊は如來、菩薩、觀音各種各樣の佛像を安置するが、特に變つたものもない。唯だ別格に飾られる偶像には奇怪異形のものが多い。此の阿彌陀の坐像を飾る背光の彫刻を仔細に觀察すれば喇嘛特種の意匠が細かに彫みつけられて居る。合掌の兩腕に掛けられたハツタカと稱する細長い布は禮拝を具象するラマの供物である。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●活佛の住居(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟は西藏風の建築を多分にその要素として居るが、活佛の住居は大低支那式の建築だ。 淸朝時代には同化政策のために利用しただけ活佛の懐柔には苦心を拂つたものである。一年おきに北京に参觀交代せしめたので活佛は殆んど支那式生活に慣れ切つて居る。從つてその居住も支那の貴族式になつたのも自然であろう。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●活佛(熱河省佛ラマ寺)
活佛の制度は淸朝時代に始まる。活佛は一山の法主として絕大の敎權を保有する。その總本山の大法王は西藏拉薩の達賴喇嘛である。活佛は原初に於ては世襲であつたが弊害の伴ふものあるがため後には轉生降神の法を設けて法統の後繼者を決めることになつた。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●僧房の街(熱河省佛ラマ寺)
喇嘛廟の周圍には附屬のラマの僧房が建ち列ぶ。幾百幾千の獨身苦行の喇嘛僧が枯淡純重にして砂漠の中にふさはしい生活をして居る。蒙古の平原に寂滅の世界を觀じて無為の相を求めんとするものは此の密敎の行者者を見るがよい。 (印畫の複製を嚴禁す) -
●ラマの法要(熱河省佛ラマ寺)
年中行事としての季節々々の喇嘛の法要は、嚴肅でもの(もの)しくて頗るエキゾチツクなものである。 房で飾つた鶏のトサカのやうな毛冠を頭上に頂いて、マントを羽織つた喇嘛の服裝と長さ二間もある喇叭、太鼓の音樂、旗、差ものの行列、すべて異形の姿、神秘の音に依つて行はれる。 (印畫の複製を嚴禁す) -
古塔の春(遼陽白塔)
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歸り路―熱河にて―
第百二十六回付錄 -
勅題『田家雪』―吉林・荒山子附近―
第百五十回附錄